母が40歳ぐらいまで進んだら活字にしてあげようと思っていましたが、なかなか進まないようで、というより昭和20年の敗戦の日までが書く事が多くまだ8月15日まで書けていないようです。
昭和3年7月31日生れの母は昭和20年というと16歳、17歳の少女だったはずです。
その少女が、戦争という非常と向き合い、また3月10日に家を焼かれその後、親元を離れ挺身隊として寮生活を強いられ石川島播磨工場で働いていた(奉仕していた)5ヶ月間の事がとても印象深いのだと思います。
母の話によると、女学校時代学校には通わず3月10日以前から石川島播磨工場で軍艦の図面のトレースをしていた様です。
3月9日の夕方、工場から自宅(深川)の近所まで友人4人と帰ってきて「また明日ね!」と言って分かれ、その晩4人の内2人が空襲で亡くなったとの事です。
その後、家族は母(私の祖母)の実家がある木更津に疎開することになったのですが、軍か工場か明らかでは無いのですが、工場での奉仕をするようにとのことで、当時築地の料亭が挺身隊の寮となっていてそこで8月15日までを過ごしたそうです。
母に言わせると、あの頃が一番楽しかったというのです。おそらく、16,17歳という人生で一番きらきら輝いていた時に友人数名と寮生活のをしていた毎日が新鮮なことでいっぱいだったのだと思います。
一日一日が、頭の中に鮮明に刻まれていて、いざ書き出すと次から次へと思い起こされるのでしょう。
この5ヶ月間だけでも一冊の本が出来そうな感じがしてきました。